休憩所でゆっくり紅茶を頂いたのち、二人は目的地の一つ前の『未来の間』に入る。
――このまま滞りなくいくかと思いきや、暫く進むと、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。
セバスは小声で、またかと呟いた。少女がセバスの手を軽く握ると、
セバスは安心させるように少女の手を握り返した。
そして、すすり泣いていた声の方に近付くと、執事の格好をした女性が両手で顔を覆って泣いていた。
初めて見た女性の案内役に物珍しさを感じつつも、話しかけずに通り過ぎようとするセバスの後をついていく。
だが、放っておくことが出来なかった少女は、セバスの手を離して女性の案内役のところに戻ってしまった。
セバスは少女を慌てて追いかけた。
「……大丈夫ですか?」
少女が声を掛けると、女性の案内役はポカンとして動かなくなってしまった。
少女は女性の視界で見えるように手を振っていたが、女性はぴくりとも動かない。
「何をしているんですか?」
セバスが少女に追い付いた。
少女は女性が動かなくなったと告げると……
「鏡の中に入った所為でしょう。鏡たちとのルールを守らないと
鏡は守らなかった者と案内役を、強制的に閉じ込めてしまいます。
ここは年代物ばかりですから、体内の時間が狂いすぎて、ここが何処だかも分からなくなっているんです。」
私の案内に従ってくださいと言ったのは、こういう理由があったからです。
――と、セバスは付け加えた。
「もっと早くに教えてくれれば良かったのに。」
「言わなかったのは、被害者が居なかったからです。
言うだけなら簡単ですが、現実を見ないと、人は半信半疑のままですから。」
「ちなみに、声が聞こえない鏡達は、全部人を閉じ込めた状態です。
それぞれの『間』を抜けた先に休憩所があるのは、お客様を疲れさせないためでもありますが
鏡に閉じ込められた後は、救護室としても利用しています。」
「閉じ込められてる時間は?」
「こちらの時間で大体、50分くらいです。」
セバスは休憩所から出てきた執事の人に、女性の案内役を預けた。
この男性もまたかと呟いたので、この女性は何度も同じ目に遭っている人なのだと少女は理解した。
「行きましょう。」
セバスが手を差し出さなくても、少女はセバスの手を取った。
また進み出したものの、周りは恐ろしく静かだった。
その理由を聞いてしまったからだろうか。
少女は鏡達に閉じ込められたら、どうしようという不安に襲われ始めていた。
歩いている道のりがとても長く感じられて。
話しかけられたら、怖がらずに会釈できるだろうかと考えると手が震えてくる。
そして、クスクスと笑う声が聞こえてきて……
「とうとう、理由を知ってしまったようね~」
「怖いでしょ、怖いわよね~」
「ほらほら、私達の声に反応しないほうがいいわよ~」
「そんな悪い子はおしおきしちゃうんだから~」
声に反応したくないのに耳を塞げないのは、何とも不便な状況だった。
少女は必死に前だけをみて進もうとするも、一度喋り出した鏡達は止まらなかった。
「ふふ、怖がってる~」
「さぁ、その手を離して、耳を塞げばいいじゃな~い」
「楽になるわよ~」
「そしたら、閉じ込めてあげるわ~永遠にねぇ~」
引っ切り無しに響く、鏡達の口撃にもう負けてしまいそうだった。
だが、セバスが強く手を握り返した。負けるな、と聞こえた気がした。
少女は振り向かないセバスに感謝しながら、もう一度前を向いて進んでいった。
暫くして、鏡達の声は止んだ。
ホッとしたのも、つかの間。
セバスは最後の扉の前で立ち止まった。
そして『死の間』と書かれた扉をノックして、その扉はゆっくりと開いていった。
「ようやく、ここまで案内できました。」
どうぞ、と促されて戸惑う少女は、キョロキョロと周りをみる。
セバスは、目的の鏡の前に少女を案内すると。
「見せてあげてください。」
鏡に向かってそう言った。
「ん~?ああ、わかったよ。」
そう答えた鏡が、映し出したのは少女の心の中にあったわだかまりだった。
「……おばぁ、ちゃん……」
鏡の中にいる少女のおばあさんは、少女の姿に気付くと、微笑んで見せた。
「なんで、おばあちゃんは、死んだのに……」
生前と変わらない笑顔が、少女の中のしこりを破壊していく。
「どうして、笑ってるの?私は、間に合わなかったのに……」
ずっと病院で待っていてくれたその人は、最後の瞬間まで現れなかった私を恨んでいたんじゃないのか?
「一度だって、行かなかったんだよ。それなのに……」
なんだかんだと理由をつけて行かなかったのは、ただ単に面倒だった。それだけの理由だった。
「怒っていいんだよ、怒っていいんだ、笑わないで……」
死んだと聞かされて、そこで初めて行かなかったことを後悔した。
今更泣いたって遅いのに、死んだ人は戻ってこないのに、その日は一生分泣いた。
それからの毎日はずっとため息ばかりだった。
どんなに好きなことをしてても、つまらなくなって、全て投げ出していた。
周りの人達からの言葉も何も耳に入らなかった。
ただ、会いたかった。あの日のおばあちゃんに会って謝りたかった。
「ごめんなさい、おばあちゃん、ごめんなさい」
鏡の中のおばあちゃんが霞んで見えていた。
変わらない、私の好きだった笑顔がそこにある。
いつまでも泣いている私に手を伸ばしてきた。
鏡の中から伸ばされた手は冷たかったけれど
掌の感触は、元気だった頃のおばあちゃんの手、そのものだった。
嬉しい時、悲しい時、怒った時、楽しい時
いつもそこにあった、おばあちゃんの優しい手が好きでした。
――いつまでも、悲しんでいるわけにはいかないでしょう?
……あなたのその言葉で励まされてきた。
だから、今度はその言葉で、最後のお別れをします。
――いつまでも、悲しんでいるわけにはいかないから
私は、前を向いて歩いていきます。

無事にミラーハウスを出た少女は、いつのまにか歩道橋の真ん中に戻っていた。
夕日は雲を紅く染め上げていて。
足元を見れば、影がのっぽさんのように細長く伸びている。
――今、いったい自分は何をしていたんだろう?
「お嬢さん、鞄が落ちていますよ。」
反対方向からきた全身を白で覆った痛々しいスーツのおじさんが
そう声を掛けてきた。
そのおじさんのいうとおり、手に持っていたはずの手提げ鞄が足元に
落ちていて、中身もちょっとだけ出ていた。
急いで詰め込んで鞄を拾い上げると、おじさんはにっこり笑って。
「ご利用、ありがとうございました。」
などと訳のわからないことを言って、反対方向へと去って行った。